もう、これで何年たっただろうか。全身が小刻みに震える程気温が寒くなる季節がやってきたのはこれで何度目だろうか。私の記憶が正しければ、それは五回か六回目だった気がする。
毎日のように私の体で行われる実験という名の拷問。体は既にボロボロ。研究者曰く、私の体はもう純粋な人間ではないらしい。私の体の再生能力を確かめるために目をくり抜いてみたり、腕や足を切断してみたり。
そして、それらの実験が終わると、必ず戻ってくる。無機質なコンクリートの壁に囲まれ、廊下に面した、扉のある面には金属でできた檻がある。よく思い浮かべる、映画や漫画などの物語の世界でよく描かれるような牢屋らしい牢屋に私は放り込まれる。そしてそのあと、私は一人牢屋の中で泣き続ける。
それが、私の日常。そのはずだった。過去形になっているのは、そんな私にも日常が変わるきっかけが訪れたからだ。
「ねえ、君。大丈夫?」
その声は、私が実験を受けた後、一人で泣いているときに聞こえた。私が驚いて、声のする方を見てみると、握りこぶしよりも少しだけ小さい穴が壁に空いていた。私は気になって、その穴を覗いてみた。するとそこにはきれいな赤い髪が肩まで伸びた、いわゆる美青年という部類の男がこちらを覗いていた。
「・・・」
私は何を思ったのか、その男の人から目が離せず、彼の質問にも答えないでいた。すると、彼はしびれを切らしたのか、困ったような顔をしながら、また私に話しかけてきた。
「君の名前、教えてくれないかな?」
今度は私の名前を聞いてきた。私の名前。今まで被験者として【AZ-01】と呼ばれていたため、本当の名前を思い出すのに時間がかかったが、なんとか思い出した。私の名前は・・・
「私の、名前は・・・『メリッサ・スチュアート』・・・」
私がちゃんと答えたからか、彼は安心したように息をついて、微笑んだ。久しぶりに人の優しさに触れた私は、私にやさしくしてくれた彼のことも知りたいと思い、名前を聞いた。
「あなたの名前も・・・知りたい・・・です。」
人とちゃんと話すことも幾年ぶりだったので、かなりたどたどしくなってしまった。そして、私の質問を聞いた彼は、かなり困ったような顔を浮かべて、
「ごめん。俺には名前が無いんだ。」
それが、私と彼・・・あの方との出会いだった。
それから毎日、彼は私に話しかけてくれるようになった。その会話の中で、彼は記憶喪失だということが分かった。思い出せる記憶の中で最も古いのはこの施設で目覚めた時のこと。ここに来る前のことは憶えてないし、名前も家族も思い出せないようだ。
「もしかしたら、家族が自ら進んで俺をここに送ったかもしれないんだから、思い出す気もないけどね。」
彼はそう言っていた。
その時、その予想は当たっているかもしれない。私もそうだったから・・・なんてことを言おうかとも思ったが、言うのをやめた。彼は優しいから、そんなことを言ったら必要以上に心配してくれるだろう。でも、この人に無用な心配はさせたくない。この人には自分の心配をしてほしい。そう思うくらいには私の中で彼は大切な存在となっていた。
そんなこんなで少しだけ変化した日常を送っていたある日の夜。隣の、彼の牢屋の方から話し声が聞こえた。彼の声と、知らない女性の声。気になった私は、聞き耳を立ててみた。二人は檻を挟んで会話をしているようだ。
「ねえ君。私に協力して、この施設を壊滅させない?そのついでにここに捕らわれている子たちも助けるつもりなんだけど。」
女性は小さな声で、はっきりとそう言った。
「お前、ここの研究員じゃねえな。」
彼はその女性にそう答えた。いつも私と話してるときとは違った口調で話している。こちらが素の喋り方なのだろう。彼はいつも私を怖がらせないように優しい口調で話しかけてくれているというのはなんとなくわかっていた。なぜならしゃべりにくそうに言葉を選んでいたからだ。
彼の言葉を聞いた女性はまたしゃべりだした。
「そうだよ。私はとある組織のスパイでね。ここの施設の壊滅を指示されたの。でも、軽く内部工作しておけばいけるかなって思ったら割と難しくて・・・それで君みたいな強い能力を持った子たちに協力を頼もうとしているわけなんだ。特に、君みたいなここにいるこの中でも特段に強い子にね。」
女性がそう話し終えると、しばらく沈黙が続いた。恐らくかなり悩んでいるのだろう。そして、一分も経たないうちに、彼が言葉を絞り出した。
「・・・一つ・・・一つだけ条件がある。」
その言葉に女性は興味深そうに聞き返した。
「条件?それはなんだい?無理のない範囲であれば全然聞き入れるよ?」
その言葉の後、五秒ほどの間を置いて彼は言った。
「この隣の牢屋にいる、メリッサという女の子を、最優先に、助けさせてほしい・・・」
私は、驚いた。彼がここまで私のことを気にかけてくれていたとは。正直、嬉しかった。
「うーん。それくらいなら・・・うん。わかった。その条件を飲もうじゃないか。」
女性は、彼の提示した条件を認め、二人は結託をした。
しかし、私には一つの懸念があった。もし、私を守る為に彼が死んでしまったりしたらどうしよう。それを想像した瞬間、私の中をすさまじい恐怖が駆け回った。散々ひどい拷問を受けてきて、何度も死の恐怖に直面した私が、自分の死の恐怖を超える恐怖を感じるとは思わなかったのだ。
私がそんな恐怖を抱いていることなんてお構いなしに作戦を実行する日が来てしまった。日数的には二週間ほど経っていたはずだ。でも、私の精神的にはまだ一日しか経っていないようだった。
「お、おい!何事だ!何が起きている!」
何人かの研究員が慌てる声と共に、警報の音がけたたましく鳴り響いている。
「グルァアアアアアアアアアア!」
化け物の雄叫びが聞こえる。それは恐らく彼だ。姿が変わる能力。実は作戦が始まる瞬間、穴の中から彼が変貌する瞬間を見ていたのだ。彼はおぞましい見た目の狼のような姿になったいた。
変貌した彼が暴れる音は、なり続けた。壁が崩れる音。人の悲鳴。彼がおる程度暴れまわった後、人の姿になって私の檻の前に来た。
「一緒にここから出よう!」
そう言って彼は檻を壊した・・・その瞬間。
「えっ、きゃあああああああああ!」
私の体に苦痛が走った。指の一本も動かせない。彼も驚いているようだった。私たちが驚いていると、
「残念だが、彼女だけは逃がすわけにはいかないんだ。」
彼の後ろに一人の冷酷な目をした男が現れた。
「彼女はね、この実験でようやく生み出すことができた完成品なんだよ。君のような失敗作とは違う。だから、檻を壊したら拘束されるように魔術を仕込んであったんだ。」
その研究者は彼に向かってそのようなことを言っていた。あんなに強い彼が失敗作・・・?そのことに疑問を持ちながらも、私は体を動かそうと頑張った。だが動かない。
「くだらん。お前をさっさとぶっ殺す。」
そう言って彼は左腕を真っ赤な結晶に変貌させ、殴りかかった。だが。
「失敗作の攻撃では私の結界は突破できない。そしてお前は用済みだ。」
見えない壁によって動きを封じられた彼の脳天を拳銃の弾丸が貫いた。彼はそのまま地面へ倒れこんだ。
私は絶望をした。最悪の想像が現実に起こってしまったのだ。
「いや・・・死んじゃ・・・いや・・・私を、おいていかないで・・・」
私は声にならないような声でそう言った。目からは大量の涙が流れていることがわかる。
「残念だったな。だが、お前に彼の後を追わせてやることはできないんだ・・・なぜなら・・・」
この下衆な研究者がそこまで言ったところで、聞きなれたような、でも、ドスの利いた声がその続きを言った。
「なぜなら、後を追うことがないからな!」
彼だ。頭に銃で撃たれた痕が残った彼が研究者の後ろに立っていた。
「なっ、お前、なぜ生きて・・・まさか・・・ニャルラトホテプの性質を引き継いでいたのか!?」
研究者は混乱しながらも考察をする。そんなことを研究者がしている間に、彼は姿を変貌させる。それは巨大な、顔のない、黒いスフィンクスのような姿で、普通の人間であれば正気を失いそうなものであったが、私は、
「・・・かっこいい・・・」
思わずそう漏らしてしまった。その巨大な神の姿になった彼は知らぬうちに研究者を踏みつぶしており、その巨体で施設の天井や壁を破壊していた。
「 !」
彼が吠えた。すると、先ほどまで聞こえていた悲鳴が止み、私を苦しめていた結界が消えた。
安心したのもつかの間。彼はそのままどこかへ進もうとしていた。その方向は、私が盗み聞きをしていたから知ることのできた情報、あの女性が被験者を連れて逃げた方向だ。
「ダメ!」
私はそのスフィンクスの足にしがみついた。あの優しい彼が、これ以上人を殺す必要はない。特に、何の罪も無い人は。そんなことをしてしまえばきっと、もとには戻れない。あの微笑みを私に向けてくれることはなくなる。
「私はあなたにまだ何も恩返しできてない!この恩を私に返させてください!だから・・・だから・・・」
私は泣いた。いつも実験の後に牢屋で泣いているとき以上に泣いた。今まで泣いた分とは比べ物にならないくらい大粒の、大量の涙を流した。これ以上、何も失いたくない・・・
「いつものあなたに戻って・・・!」
私の悲痛な叫びは、闇に消えて・・・
「あ・・れ?」
私がしがみついているものの感触が変わった。人の体のような・・・それでいて安心する感触。私が困惑していると、私をその抱き着いているものに引き寄せるように二本の腕が私の頭と背中に触れた。
私がその正体を知ろうと顔を動かすと、泣きながら私を抱きしめる彼がいた。
「ごめん、ごめん・・・!怖い思いをさせて・・・本当に・・・ごめん。無事でよかった・・・!」
彼は私に謝り続けた。安心した私は、彼の体を改めて抱きしめ返した。今度は私が彼を安心させるように・・・
これが、後の鳴神颯真とそのメイドであるメリッサ・スチュアートが共に失ったものを探す、人生という長い旅の始まりの物語。これが、私が颯真様のメイドになるきっかけとなった、もう一つの物語。
熾天使が綴る物語は、始まりに過ぎなかったのだ。