第二十話:法王・二

 誰かと外食するときは個室に限る。なぜなら、恥ずかしい話を他人に聞かれずに済むからだ。
「にしても珍しいですね。颯真さんが風邪をひくなんて。」
「でも、メリッサに看病してもらったんだろ?結果的にはよかったじゃないか。結果的には。」
「影狼、その言い方はよせ。まるで俺の身を案じているかのように聞こえる。」
「その通りだが?」
 とある飲食店の個室を借りているのは、俺と、オルトロス『神行班』の班長、佐倉雪無と、同じく『虚影班』の班長、支闇影狼。
俺たち三人は組織内でも仲が良く、こうしてたまに飲み会と称した集まりをしている。
 今回の飲み会は、俺が先日風邪で寝込んだという話で持ち切りだ。すき焼き鍋を三人でつつき合いながら二人が俺をいじめている。
「心配してくれるのはうれしいが、俺にはメリッサがいる。優秀なメイドがいるのに、何を心配することがあるというんだ。」
俺はそう言って、箸で掴んだ牛肉を自分の口の中へ放り込んだ。
「まあ、それはそうなんだけどな…」
何か言いたげな影狼は酒が入ったコップに少しだけ口をつけた。
「影狼さんが言いたいこともわかりますよ。無理をしすぎなのもそうですが、いつまでメリッサさんは『メイド』なんですか?」
「…何が言いたい?」
雪無の言葉に、俺の箸が動きを止めた。
「私が何が言いたいのか、貴方なら分かるでしょう?誤魔化すのが下手ですね。」
雪無の言う通り、今の反応は誤魔化しただけで、彼女が言わんとしてることは分かっている。分かっているんだが、その流れからその話題に持っていくのが無理やりすぎて困惑した。
「…メリッサの話題が出てくる度に言うのはやめてほしいんだがな。」
俺がため息交じりにそう漏らすと、影狼が身を乗り出して鍋から椎茸を摘まみ、俺の顔を見ずに声を出す。
「確かに看病うんぬんの話の時はそっちの話題にする気はなかったけど、こうも『メイド』というのを強調されると、ツッコまざるを得ないというかなんというか…」
言い終えると、椎茸をタレが入った小皿でバウンドさせてから自身の口の中に放り込んだ。
「そうですね。『俺にはメリッサいる。』だけで止められてたら私たちは何も言わなかったと思いますよ。」
雪無は白菜と牛肉を一緒に掴んで小皿へと運んだ。
「…実際好きなんですよね?恋愛的な意味で。」
それらを口に運ぶ前に、真剣な顔を俺へと向けてきた。
「あの距離感にいて惚れない方がどうかしてるだろ。」
この二人に対しての嘘がどれほど無意味なのかをよく理解している俺は、そう言ってコップの中の酒を飲み干した。
「それだけハッキリ言えるなら本人にも言ってあげればいいのにな。」
そう言った影狼は、白滝を口に含む。
「それができないからこうなってるんだよな…」
俺は空になったコップの底を見つめる。
 俺はあの実験施設でメリッサを初めて見た時のあの気持ちの昂りを今でも覚えている。
 荒れ果てた地に咲く一輪の白い花。廃墟の世界に降り立った天使。真っ暗闇に差した一筋の光。
例えようと思ったらいくらでも言葉が出てくる。そう、あの時…

―俺は、あいつに一目ぼれしてたんだ。

 あの場所には酷く不相応な彼女のことが愛しくてたまらなかったんだ。
でも、あいつは正常な精神状態を保てていない。俺に異常なレベルで依存するようになってしまったんだ。
俺に嫌われ、突き放されることを異常なまでに恐れているメリッサに、「好きだ。」なんて言ったら?「付き合ってほしい。」なんて言ってしまったら?
 メリッサの恐怖心が、それを承諾してしまうのだろう。
 「好きだ」なんて俺からは言えない。この想いが報われる日が来るとするなら、それはメリッサの意思で、メリッサが告白してきた時だけだろう。
 俺が見つめる空っぽのコップに視界の外から酒瓶の口が向かってきて、その透明な液体が流し込まれた。
酒を注いできた人物がいるであろう方向へ顔を上げると、そこには影狼がいた。
「…いらなかったか?」
影狼が微笑む。確かにいらないといえばいらなかったが…
「いや、もう一瓶頼んでしまおうか悩んでいたところだ。」
と返した。
「まあ、颯真さんがこれからすべきことは、メリッサさんと恋仲になることよりも、メイド扱いをやめることですね。まあ、当の本人はメイドとしての生活が気に入っているようなので、仕事を奪えというわけではありませんが。」
そう言いながら、雪無は店員呼び出しのベルを押した。
「…そう…かもしれないな。」
いつも楽しそうに身の回りの世話をしてくれるメリッサを思い出すと、それも難易度が高そうだなどと考えながら、呼び出しベルの音を聞き流す。
 少し待っていれば、個室の扉がノックされ、店員が入ってくる。
「こちらの日本酒を、もう一瓶お願いできますか?」
「はい、かしこまりました。少々お待ちください。」
雪無が頼み、店員が退室する。
「さて、私たちは翼さんのような吞んだくれではありませんが、今夜は思う存分飲みましょう。」
「ああ、たまにはそういうのもいいな。颯真もそう思うだろ?」
二人して俺にやさしい笑顔を向けてきた。こういうのを友情というのだろうか。
「まったく……それは構わないが、ほどほどにしてくれ。またメリッサに心配をかけるのは御免だからな。」
俺はそんな返答をしながら、ニンジンを口に放り込んだ。

…………………………

 「それでは颯真さん、影狼さん。またお会いしましょうね。」
「ああ、雪無も颯真も、今日はありがとな。また三人で飲もう。」
飲み会も終わり、雪無と影狼はそれぞれが呼んだタクシーに乗って帰っていった。俺はそれを一人で見送っていた。
「…さて、そろそろ来る頃か。」
俺が呟いた予想通り、『彼女』は来た。
俺の目の前に車が止まる。見慣れた車だ。俺は躊躇うことなくそのドアを開けて助手席に座る。
「お待たせしました、颯真様。飲み会は楽しかったですか?」
運転席に座る少女は俺の方に顔を向けて優しく微笑む。
「ああ、十分に楽しめた。やっぱり、たまにはこういうのもいいな。」
俺は隣に座る彼女の、メリッサの顔を見て答えた。
「それはよかったです。それでは、帰りましょうか、私たちの家に。」
「そうだな、運転、頼んだぞ。」
「お任せください、安全運転で参りましょう。」
メリッサが顔を正面に向け、ハンドルを握りなおす。
そして、俺たち二人を乗せた車は、前に走り始めた。
 走り始めてから少しの間は何も話すことがなく、車内は沈黙していた。聞こえるのは車の駆動音だけ。
その沈黙の中で、俺は飲み会の最中に雪無に言われたことを思い出し、口を開く。
「なあ、メリッサ。今の労働環境に何か文句があったら遠慮なく言えよ?主従関係なんて、気にしなくてもいいからな?」
「どうしたんですか?藪から棒に。」
運転中のため、横顔しか見えないが、困惑していることだけはよくわかる。
「いやなに、飲み会の時に話題になってな。『オルトロス』での労働環境がもっと良くならねえかなーって。一応、俺もお前を雇ってる側の人間だからな、俺のために働いてくれてるメリッサの文句の一つや二つを聞いてやろうかと。お前には、これからも俺の下で働いてほしいからな。」
我ながら咄嗟の言い訳としてはなかなかの出来だと思う。
俺が自分の発想力に満足していると、メリッサは苦笑した。
「心配してくださるのはうれしいですが、文句の一つや二つなど、私にはありませんよ。颯真様のお役に立てるというだけで、私は【し■わ■】ですから。」
その歪な返答は、本心を隠しているということを示唆していた。本人は気づいていないだろうが、【しあわせ】という発音が明らかにできていなかった。
「そうか。それならいいんだ。急に変なことを聞いて悪かったな。」
俺はそのことに言及することもなく、何事も無かったかのように振る舞う。
「いえ、むしろこんな私のことを気にかけてくださってありがとうございます。」
もはや卑屈にも聞こえるレベルで自分のことを下げるメリッサ。どうしてここまで、自分のことを認めてやれないんだ。
 考えているうちに、ふと曖昧な不安が脳裏をよぎった。
「…なあ、メリッサ。お前は、『此処』にいるよな?これからも。」
俺が投げかけた輪郭のない問いに対し、一瞬、ほんの一瞬だけ、メリッサは横目でチラリとこちらを見た。
「質問の意図をはかりかねますが…颯真様の仰る『此処』が、『何処』かによりますね…」
メリッサもまた、ぼやけた言葉で返してきた。でも、それだけで十分だった。
十分、『解ってしまった』。こんなにも少なくて掴みどころのない情報から分かってしまうなんて…
いや、俺は今まで分からないフリをしていただけか。
俺は初めて、メリッサの頭の中にある、霧で覆われたものの一端を直視したような気がした。目をそらしていた確信を、真実に変えてしまったんだ。
「でもまあ、少なくとも今は『此処』にメリッサは『ありますよ』。」
「…そうか。」
それ以上、かける言葉が思い浮かばなかった。浮かんでくるのは薄っぺらい言の葉ばかり。
そんなもので、どうして彼女を『此処』に繋ぎ止めることができるだろうか。
まだ、自分のをことを実験体《物》だと思っている彼女を、どう繋ぎ止めたらいい?
「……今夜も月は綺麗なんだけどな。」
「はい?何か仰いましたか?」
「いや、別に。ただ、美味い酒を飲んだ後の月は綺麗だなって思っただけだ。」
「…そうですか。」
―一体、何を期待していたのだろう。
『私、死んでもいいわ。』と言ってくれるのを期待していたわけでもあるまい。
ただ、言ってみたくなっただけだ。

…………………………

 家に着いて、風呂に入って、メリッサと他愛もない会話をする。
帰って来る度に俺は実感する。やっぱり、この空気感が一番落ち着く…と。
影狼と雪無と酒を飲み交わすのは楽しい。それは間違いなく事実だ。でも、俺はメリッサがいるこの空間が一番いい。
「じゃあ、メリッサ。おやすみ。」
「はい、おやすみなさいませ、颯真様。」
俺とメリッサは軽く挨拶をすると、そのままそれぞれの部屋へ戻った。
 俺しかいない空間。部屋の明かりは付けずに、カーテンを開けた。
すると当然、月の光が差し込んだ。俺は、懐から赤い半透明の六面ダイスを取り出し、月明かりに照らしてみる。これは、俺が風邪で寝込んだ時、枕元に置いてあったダイスだ。
カプリス様からの贈り物。
 その赤い立方体は、月の光を浴びて、赤く光る。いや、ただ光が透けただけだ。
「メリッサ…お前……」
俺が察してしまったメリッサの心の内。
【しあわせ】という言葉が発音できていなかったこと、そして、卑屈ともいえるレベルで自分のことを下げていることから、なんとなく、視えた。

―メリッサは、俺の傍を離れようとしている。

理由は分からない。分からないが、メリッサは、俺の傍を離れようとしている自分に対して、恐怖しているんだ。
【しあわせ】という言葉がうまく発音できなかったのも、【幸せ】が何なのか分からないから。特に最近、あの豪華客船での一件によって、自分の過去をはっきりと思い出し、以前よりも【幸せ】という概念がひどく曖昧になっているのかもしれない。
そして、メリッサと同じ時間を共有する、こんな小さなことにも【幸せ】を見出すような俺と、それを幸せと感じることができないメリッサ。
これこそが、俺とメリッサが不相応な点。
【幸せ】な人と、そうでない人は、相容れない。同じ道を歩めない。
それが、メリッサの考え方。
だが俺には、メリッサがただ、【幸せ】を受け入れてないだけのようにも感じる。特に、雪無やレイラ、そして犬兎たちと関わるようになって、あいつは楽しそうだった。
それなのに…
 「ああ、そういうことか。初めて出会った時から、お前はそうだったのか。」
ただダイスを眺めていただけなのに、腑に落ちた。
メリッサは、【幸せ】になれないんじゃないし、ならないんじゃない。

―メリッサは【幸せ】になることを禁じられているんだ。

「…となれば、俺があいつを繋ぎ止めるためにやることは一つだけだな。」
俺は、ダイスを机の上に転がした。
「賽は投げられた。犬兎、お前が裏でコソコソ探しているものが見つかってくれることに、俺は賭けてやる。」
ここから先は、犬兎次第。他人への賭けなんて、俺らしくもない。だが…
俺が表立って動くことは、リスキーすぎる。メリッサの抱えているものが何なのか、まだ全部が見えたわけじゃない。俺が考えた通りのものを抱えているとするなら、もうとっくに出て行っているはずだ。そうしないのは、あいつが俺の傍にいようと思える、最後のくさび、未練、執着があるからだ。しかし、それは何かしらのトリガーによって、簡単に断ち切られてしまうだろう。
その楔の正体がなんなのか、それは『フェティッシュ』なのか。また、その引き金がなんなのかは分からないが、少なくとも、俺に関することが引き金となることは容易に予想がつく。
だからこそ、俺にだけ反応する地雷を俺が踏まないように、他者を使うしかない。
これはただのエゴだ。メリッサの気持ちなんて関係ない。俺がまだ、メリッサと一緒にいたいというだけ。
俺は、『3』という数字を指し示したダイスを見つめて呟く。
「らしくはないが…犬兎。どうか、俺たちを…いや、俺を…」

―救ってくれ