「颯真様。朝ですよ。」
「んん…」
起床。俺は瞼を開き、重い体を起こす。
「ああ、メリッサ、すまんな、おはよう。」
「いえいえ、おはようございます。」
わざわざ俺の部屋まで起こしに来てくれたメリッサに礼を言いつつ、ベッドから降りようとする。
足をベッドの外に出し、立ち上がろうとしたとき、
「…颯真様、どうかなさいましたか?」
と声をかけられた。
「え?どうって何が?」
「その…少し体を動かしづらそうにしていましたので。」
眉を八の字にしたメリッサが俺の姿を見つめていた。
「あー…どうだろうな、まだ寝ぼけてるのかもしれない。」
確かに少し体が気怠いような気もしないでもないが、俺はとりあえずそう返しておいた。
何か不都合があれば後で言えばいいだろう。
「そうですか…それでは、私はまた朝食の準備に戻りますので…」
「ああ、着替えたら行く。」
俺の返事を聞き、メリッサは俺の部屋から出て行った。
その様子を見届けた俺は改めてベッドから立ち上がる。すると…
「ん…?」
視界が少し歪み、体がふらついた。これは明らかに眩暈だ。それを自覚した時、俺は自分の体の異常に気が付いた。頭が痛い、体が熱い。そして酷い倦怠感と気持ちの悪い浮遊感。
「…もしかして…」
そのことに気づいた俺は着替えもせずに部屋を出て、ダイニングに向かう。
体がふらつくから壁に手を当てながら、感覚がほとんどない足を動かす。歩く振動さえも頭に響く。
「颯真様…?大丈夫ですか?着替えていないみたいですけど…」
なんとかダイニングにたどり着いた俺は、食事を並べていた手を止め、不思議そうに俺を見つめるメリッサにこう言った。
「メリッサ。俺は風邪を引いたのかもしれない。」
言葉を言い終えた瞬間、彼女の行動は速かった。
―MELISSA`S VIEW―
颯真様が風邪を引いた。
朝に顔を合わせた時、そのことに気が付けなかったのは私の落ち度だと思う。メイド失格だ。
私は、颯真様の申告を聞くとすぐに自身に身体強化の魔術をかけ、一瞬で颯真様を颯真様の自室まで運んだ。
「颯真様、今日はここで大人しく寝ていてくださいね。」
私は颯真様の体をベッドに横たわらせた。
「ああ、すまん。」
焦点があっていない目で私の顔を見る颯真様。
「今は謝罪なんて聞きたくないです。そんなことより、今から着替えと、体を拭くものと、冷却シートを持ってきますから、少し待っていてくださいね。」
「うん。」
颯真様とは思えないような弱々しい返事を聞いた私は、すぐに部屋を出て、自分の部屋に戻る。
そこで私はまだ仕舞わずに畳んだままの洗濯物の中から颯真様のパジャマとタオルを取り出す。そのついでに私も着替える。メイド服を任務用のスカートが短いものに変更。
長い髪の毛も邪魔になるだろうから、両手でそれを一つにまとめ上げ、普段の颯真様のようなポニーテールに。
極めつけは机の中に仕舞っていた丸眼鏡を取り出し、かける。
この眼鏡は、『オルトロス』に申請したらもらえる、分析のセフィラム能力が付与された眼鏡だ。
これをかけていると、指定した物の状態などを瞬時に分析してもらえるというものだ。
正直、戦闘時などにあっても邪魔なので、これをもらっているのは『虚影班』くらいだろう。
だが、私は違う。メイドとしての仕事の時に役立つのだ。
「さて、お店の看板も臨時休業にしなければいけませんね。」
私は着替えなどを持ったまま家の外に出て、看板を『臨時休業』に変更する。
それが終わったらリビングへ救急箱を取りに行き、そこから冷却シートを取り出す。
そこまで準備できたところで、颯真様の部屋へと急いで戻る。
「お待たせしました、颯真様。」
「ああ…」
いつものキリっとした表情から一転、とろけたような表情の颯真様。やっぱり辛そうだ。
「お辛いとは思いますが、体を起こしていただけませんか?」
私がそう声をかけると、颯真様はのっそりと体を起こそうとした。私はそれを支えるようにして颯真様の体を起こす。
「すみません、少し恥ずかしいとは思いますが、服を脱がせますよ。」
「…ん。」
颯真様は自らパジャマのボタンを外す。私は颯真様の腕を優しく掴み、そのパジャマの袖を腕から外す。その調子で反対側も脱がす。そうしてパジャマを脱がせたところで、私はタオルを手に持ち、汗ばんだ颯真様の背中を拭く。
(颯真様の背中、たくましいな…)
私は思わずそんなことを考えてしまい、顔が熱くなる。それを自覚した時には、私が今、相当恥ずかしいことをしているということも分かってしまう。
顔がだんだん熱くなるのを感じる。焦りで私は自分が今何をしているのかもよく分かっていなかったようだ。
恥ずかしさで私も熱を出す前にさっさと背中を拭いてしまい、替えのパジャマに着替えさせる。
流石にズボンはまずいと思ったので、私は顔をそらし、自分で着替えてもらうように頼んだ。
その後、着替え終わった颯真様の額に冷却シートを貼り、私は逃げるように部屋を出た。
扉を閉め、キッチンに向かう私は、深呼吸をし、冷静になるようにした。
「これは颯真様の為に必要なこと…これは颯真様の為に必要なこと…」
自己暗示しながら廊下を歩く私。これで冷静になったような気はしないが、なったと思いこむしかない。
自己暗示をしているうちに私はキッチンに立っていた。
「いい加減切り替えなきゃ…ですね。」
私は自分の頬を両手で挟むように軽くパンパンと叩いて、気合を入れる。
「とりあえず、リンゴは…っと。」
私は冷蔵庫からリンゴを取り出し、調理器具を仕舞っている引き出しからまな板と包丁、そしてすりおろし器を取り出す。
そして慣れた手つきでリンゴを切り、すりおろし、食器棚から取り出した容器にすりおろしたリンゴを移す。
それを手に持った私は、再び急いで颯真様の部屋へ戻る。
「颯真様、お待たせしました。リンゴをすりおろしてきましたので、お召し上がりください。」
私が颯真様のベッドの横でひざまずき、そう言うと、颯真様はゆっくりと体を起こす。
「ありがとう…」
その表情は心なしかさっきよりも辛そうな気がする。眼鏡の能力で熱を測ってみたが、現在の体温は39.4度。普通に考えて辛いのは当たり前だ。
そんな中で起こしてしまうのは申し訳ないけど、さすがに朝から何も口にしていないというのはよくない。なので、私はすりおろしたリンゴをスプーンですくい、零れないようにもう片方の手で受け皿を作る。そしてそれを体を起こした颯真様の口元に近づける。
「颯真様、あーんしてください。ほら、あーん。」
「ん…」
私が口を開けるように促すと、颯真様はぼんやりとした目のまま、口を開く。
いつも私に対しては比較的素直な方だったが、ここまで素直だと逆に心配になる。それほどまでに辛いのか。
そして私は颯真様がスプーンの上に乗っていたリンゴをしっかり飲み込むのを確認する。
「…もう一口、いけますか?」
私がそう尋ねると、颯真様は軽く頷いた。
「そうですか、それじゃあ、ほら、あーんして。」
また一口。颯真様が私の持つスプーンからすりおろしたリンゴを口に含む。
それを何回か繰り返す。一口、また一口。そしてまた、一口。
この時間は静かで、時間の流れもゆったりしているように感じられる。
思えば、最近の私たちは少し忙しかったような気がする。
犬兎様の加入、表の仕事も最近は依頼が多かった。そして極めつけは先日の豪華客船だ。
豪華客船では、私たちの因縁とも言える実験、その一端に触れた。だが、颯真様の場合はそれだけではない。
あの日、颯真様は私のことを護る為に一睡もしていない。
徹夜など、颯真様が最も苦手とすることだ。颯真様に負担をかけないよう、私も寝ないようにしたかったが、颯真様に半ば無理やり寝かしつけられてしまった。
恐らく、その日の無理がたたったのだろう。事件が終わったのはおとといのことで、その日は帰るのも遅かったから睡眠時間は全然足りていない。それどころか昨日は休むことなく報告書を書き、なんでも屋の仕事もこなしていた。
やはり、原因はそれだ。颯真様は、私以上に休めていない。
リンゴをゆっくりと飲み込む颯真様。
そのリンゴと同じように、普段は自分の弱い部分も、飲み込んでいるのだろうか。
「…完食しましたね。えらいですよ、颯真様。もうご無理はなさらず、横になってください。」
私は颯真様の体を支えるようにしてゆっくりとベッドに寝かしつける。
「…それでは颯真様、私はまだ家事が残っていますので、一度退席しますね。」
私がそう声をかけて立ち上がった時、私の右手首が掴まれた。
いきなりのことで驚き、颯真様の顔を見ると、颯真様は、捨てられた子犬のように、縋るような、それでいて今にも泣きだしそうな目で私の顔を見つめていた。
「…いか…ないで…一人に…しないで。」
弱い。いつもの強い颯真様はいない。こんなの、颯真様じゃないみたい。
これは颯真様に対する失望でも、侮辱でも、軽蔑でもない。
こんな風になるまでに弱ってしまっているということに、私は心配を通り越して不安を感じている。
やっぱり、この人には、私が必要なのかもしれない。
そんなことを考えた時には、私は颯真様の手を両手で包み込むように握り返し、ベッドの横で正座していた。
「大丈夫、大丈夫。私は…メリッサは、颯真様の側から離れたりしないから。颯真様が元気になるまで、ずっとここにいる。だから、心配しないで。安心して眠って。」
やさしく、易しく、優しく。いつかの日に冷たい牢屋の中で颯真様が私に声をかけてくれた時のように声をかけ続けた。
そうしていくうちに颯真様の苦しそうな表情はだんだん和らいでいき、ついには眠ってしまった。
熱を測ると、既に40度に到達しており、無理にでも体を起こしてリンゴを食べさせたのは失敗だったかと思ってしまう。
「…まあ、眠りについたみたいですし、きっと大丈夫でしょう。私はこのまま颯真様の手を握り続けていれば…いいんですよね?」
そう尋ねても返事が返ってくることは無く、颯真様の寝息が聞こえるのみだ。
そして再び静かな時間が流れる。
この時間が、何よりも貴重で、心地いい気がする。
髪を降ろした颯真様の寝顔なんて、いつも見ているはずなのに、いつもと雰囲気が違うように感じる。
いつもは強くてクールな、かっこいい颯真様でも、今は弱くて子どもっぽい颯真様。
これがいわゆるギャップ萌えというものだろうか。
その姿に思わず可愛いと声に出してしまいそうになる。もっと尽くしてあげたくなる。ずっと側にいたいと思ってしまう。
そんな考えに至ったところで私は、改めて自覚した。やっぱり…
―やっぱり、私は、この人のことが好きだ。
やさしくて、強がりで、ちょっと子供っぽいところもあって、それでもかっこいい颯真様のことが、好きなんだ。
ずっと一緒にいたい。彼のことを独占したい。颯真様と…主従を超えた関係になりたい。
この気持ちは、『私のような』メイドには分不相応で、この身に余るような世迷言でしかない。
この気持ちを告げられる日も、この気持ちが報われる日も、きっと来ない。
だって、私はもう、【幸せ】を失っているのだから。
だから…せめて…この瞬間だけは。この人の温もりを誰よりも近くで味わっていたい。
私は、颯真様の手に縋るように、握る手の力を強めた。
すると、颯真様が
「ん…んん…」
と、うなり声をあげた。
起こしてしまったかと心配し、私は颯真様の顔を覗き込んだ。だが、その表情は安らかなままだった。
安心した私は、空いた方の手で颯真様のサラサラな髪を優しく撫でた。
「…愛していますよ、颯真様。」
気づけば、その言葉を口に出していた。いや、本当はただ言いたかっただけなのかもしれない。
こんなこと、直接本人には言えないから。こんな機会でもないと、一生口に出せないから。
そしてどうやら、最近の多忙で疲労が溜まっていたのは颯真様だけではなかったようで、私もだんだんウトウトし始める。
ずっと言いたかった言葉を言えた満足感と最近溜まっていた疲労、そして、大好きな人の手の温もり。
この三重奏は、私を眠らせるのに十分な子守歌だった。
―SOUMA`S VIEW―
「んんぅ…」
俺は目が覚めた。だいぶ気分がいい。
確か、熱を出して、メリッサに看病してもらってて…
思い出せるだけ思い出してみるとすっごい恥ずかしい記憶が浮かんでくる。
でも、こんなに丸一日尽くしてもらえたなら、熱を出して寝込んだ甲斐もあったのかなと思う。
まあ、あんまりメリッサに心配を駆けたくはないから、今後はこうならないように気を付けるつもりだが。
ふと、右手になにやら温かい感覚がある。
「あ……」
メリッサの手だ。メリッサが、眼鏡もかけたまま、正座したままで俺のベッドに頭を預けて眠っていた。
その表情はどこか朗らかで、かわいらしかった。
「…いつもありがとな。メリッサ。」
眠っている彼女には聞こえないであろうこの言葉。後でもう一度本人に伝えることにしよう。
そう思ったところで、俺は枕元の左側に何かが置かれていることに気が付く。
それは、赤い半透明の六面ダイスだった。
「…てことはカプリス様?」
そのダイスの下には一枚の紙切れが置かれていた。そこに書かれていた内容は…
『颯真君、お大事に。そして、末永くお幸せに。』
俺は茶目っ気があるな…と思う反面、見られていたことに対する恥ずかしさで下がりかけていたであろう熱が再び上がったような気がした。