第二話 狼

 激痛が意識を呼び起こした。
 自分を閉じ込めていた牢獄の壁に激突し、気を失った。
 腕に力を込めて起き上がる。前を向くと、砕け散ったレンガ造りの壁が目に入った。
 一瞬見えた巨大な剣。それが振り下ろされて発した衝撃波によって大きく吹き飛ばされ、壁に激突した。背骨が砕ける勢いでぶつかったのに、砕けたのは骨よりもずっと堅い壁のほうだった。
 男は生きていた。単なる幸運では説明しきれぬ、奇跡だった。
 体は傷だらけだった。打ち身による痣、破片による切り傷。大した出血はなかったが、痛みでもう一度気を失いそうだった。
 思えば、これほどの痛みは体験したことがない。戦争奴隷として戦っている時も、見せ物として闘技場で戦っている時も。体を槌で殴られようと、剣で斬りつけられようと。矢が肩を射貫こうと、腕を叩き折られようと。こんなにも辛く、涙が出そうな痛みは初めてだった。
 男は歯を食いしばり、落ちている鉄杭に手を伸ばした。
 握りなれた剣の柄より、ずっと細い。しかし、なぜか手に馴染んだ。
 男は悟る。誰かを殺す前。剣を握るのと同じ、あの感覚だと。

 また、命を奪うのだろうと。

 目の前に一匹の狼がいる。なぜか自分は短剣を握っている。
 辺りを見渡すと、壁だった。出口はない。上を見上げると、一人、男がいた。こちらを、値踏みするような目で見ている。
 話し声が聞こえる。大人たちの低い声。それに混じって、甲高い悲鳴が聞こえた。子供の声だった。
「さあ、始めよう」
 自分を見ている男がそう声を発した。次の瞬間、角笛の音が聞こえた。
 突然、狼が唸りだした。
 理解した。この狼は、自分を食おうとしているのだと。途端に恐怖で満たされた。
 狼がこちらに一歩踏み出す度に、自分は一歩後ずさる。狼が低く身構えた。突進してくる。そう感じた。
 次の瞬間には、自分の体は横に飛んでいた。寸でのところで狼の攻撃を躱して、立ち上がる。
 そんなことを、ずっと繰り返していた。どうすればいいか、分からなかったから。

 男は飢えに気づいた。ひどく、腹が減っている。何か食わねば、死ぬ。本能がそう訴えていた。
 鉄杭を握りなおして、牢獄とは反対の方向に歩き出した。鉄格子の隙間から嫌というほど眺めた森。
 この森を抜けた先に何が待つかを、男は知らなかった。だが、妙な高揚があった。初めて手にする自由。命令を気にせず、歩くことのできるこの時間。全てを諦観したわけではない。それでも、なんでもできる気がした。
 男は微笑んだ。生まれて初めて。そうして、歩き出す。長い退屈に、ようやく終止符が打たれた。

 昇る陽光は、牢獄を両断した剣を照らさなかった。

 何度、転がっただろう。狼は相変わらず、こちらに牙を剥いて突進してくるばかりだ。
 疲れてきた。息が上がっている。喉の渇きが、感覚を鈍らせる。さっきより、危険な場面が増えた。牙が腕をかすったり、飛ぶ直前に力が入らなくなったり。そろそろ、限界だ。
「こいつは」
 不意に声がした。男の声だった。
「期待外れだな。もうじきに死ぬだろう」
 明らかに気落ちしている、というか、失望した声だった。
 途端、途轍もない怒りが込み上げてきた。
 理解した。この男が。自分を。狼のいる空間に。突き落としたのだと。そして。自分を。試しているのだと。
 狼がまた突進してくる。怒りのままに振った短剣は、狼の左目を切り裂いた。なおも開き、自分を噛もうとする狼の口に、短剣を思い切り突き刺した。そのまま腕ごと突っ込む。
 狼は半狂乱で、口を閉じた。牙が、腕に刺さる。痛みはない。空いているもう一方の手で、狼の右目を鷲掴む。そのまま握りつぶした。
 尋常ではないその光景を、男は唖然として見ていた。
 狼が脱力し、痙攣した後、絶命した。
 噛まれたままの右腕に突然痛みが走る。腕を引き抜くと、牙の刺さった腕は裂ける。血まみれの左手で狼の上顎を掴み、精一杯の力を出した。腕から流れ出た血で粘った口が開き、慎重に右腕を抜いた。
 心臓が痛いほど脈打っている。意識が朦朧としていた。
「まさか生き残るとは思わなかったぞ」
 男がこちらを見ていた。さっきのような怒りは感じなかった。
「お前を買おう」
 男がそう言ったのと同時に、体が崩れ落ちた。
「俺の名前は―」
 そこで意識が途切れた。
 結局、その男が死ぬまで、名を聞くことはなかった。