第一話 氷雨の夜

明けぬ夜も
 暮れぬ昼も
昇らぬ陽も
 沈まぬ月も
現世になく
 常世にある

 男は牢の中にいた。
 戦争奴隷として生まれた日から、一日たりとも、まともに過ごしたことは無い。
名前もない。自我もない。心でさえも。
 言葉の理解はできた。でなければ、主人に殴られるから。「殺せ」という言葉がどういう行動を求めているのか。「行け」という言葉がどういう行動を求めているのか。理解はできた。読めないし、話せないが。
 いつものように命令されて戦った。そして負けた。主人が目の前で斬り殺されそうになった時、主人はこう言った。
「守れ」
 意味は理解できなかった。知らない言葉だったから。
 結局主人は死んだ。「まもれ」と発音したあの言葉の意味を、男はまだ知らなかった。
 男はやることもない牢の中で、座り続けた。定期的に二回出される飯が運ばれると、運んできた男は「食え」と言う。
 何度も聞いた言葉だったから、行動に移すことができた。そのおかげで、生き永らえている。
 夜になった。射干玉の如し暗夜に、氷雨が降っている。
 牢の中はひどく寒かった。まともな布がないので、寒さを凌げない。
「おい」
 男は不意に声をかけられた。看守の男が二人、そこに立っていた。
 看守のうちの一人が黙って布を投げてきた。
「使え」
 聞いたことのある命令だった。布ではなく、剣を渡されて言われていたが。
「ジオル。なんで奴隷なんかに布を渡すんだ」
「ワルゼン様の命令だ。奴隷どもを死なせるなと言われている」
「・・・ということらしい。良かったな、お前」
「死ぬなよ。お前が死ぬと、俺たちが生きていけねぇ」
 そう言うと、二人の看守は去っていった。
「死ぬな」
 その言葉の意味は理解できていた。「生きろ」とは誰も言ってくれなかったから。

 いつの間にか眠っていた。冷たい床に体を横たえて寝ていた。
 轟音が聞こえた。
 大砲のような音が立て続けに鳴っている。
 男は体を起こして、その音がする方向へ耳を傾けた。数人の男たちがわめきながら何かしている。ひと際大きい声が響くと、その次には轟音が鳴る。聞き覚えのある、砲撃音だった。
 雨の音は、ほとんど聞こえない。
 他の囚人たちも目が覚めたようで、隣の牢の女は、発狂している。というか、男以外の囚人たちは、皆うるさかった。
 無言で辺りを見回していると、看守たちが一斉に中に入ってきた。何かにひどく怯えているようで、何を言っているかは分からなかった。
 その刹那。
 一瞬の揺れの後に、体が大きく後ろへ吹き飛ばされた。
 爆発だった。
 何か巨大なものが空から降ってきた・・・というより落ちてきたような。
 ほんの僅かに開けた目から見えたのは、巨大な剣の持ち手の部分だった。あとは、血の雨。
 背中が壁にぶつかった。激痛が走る。
 何かが砕けるような音がした。自分の骨か、もしくは壁か。
 答えがどちらかは、男はこの瞬間に知ることはなかった。

「さすがは、【鉄の宿し子】だ」
「・・・」
「やはり【宿し子】の力は偉大だな。この調子で、私に歯向かう者を消していくとしよう」
 彼らは、氷雨の中に立っていた。
 たった今無くなった牢獄を見ながら、男は微笑んだ。
 その傍には、一人の幼い子供がいた。